「こんなところに客とは、珍しいこともあるもんだ」
「探したよ。こんな迷宮の深淵にひそんでいるとは、さすがは〈大魔女〉ファタ・モルガーナといったところか」
「ずいぶんと古い名前だね。そいつはもうとっくにくたばったとばかり思っていたよ」
「ああ。実はおれも半ば諦めていたのさ。ここ数十年は噂も耳にしなかったからな。しかし神の啓示があってね。霧の中から響く声にここまで導かれたんだ」
「ふん、神か。なんのためらいもなくその言葉を口にできる奴が、この世界にいったいどれくらいいるだろうね」
「時代は変わった。いまや誰しもが口にするさ」
「かもしれんな。神に誓う意味は変質した。なにもかもが過去を置き去りにして転がっていく。そうしてあたしのような古い存在は消えてゆくのだね」
「そうだ。それが世界の理だ。世界は進化しているのさ」
「それは歪んだものの見方だね。おまえたちは自分の生きる時代が常にもっとも優れていると思いこむ。愚かしいことだよ」
「それはおれのように一つの時代しか生きられぬ者には永遠に理解できないさ。とにかく今のおれにはその古い存在が必要なのだ」
「いったいなんの用事だい?」
「もはや世界に残っている魔女はあんた一人だけだ。他の奴らは皆消えてしまった。どうしてだと思う?」
「問うてるのはあたしだよ。近頃の若造は会話すらできないのかい」
「誰も信じなくなったからさ。魔女なんて非科学的なものは存在するはずがないと思われるようになった。教会も形骸化し、儀式は単なる慣習でしかない」
「それがなんだというのさ。あたしたちはおまえたちが存在する遙か昔から存在してきたのさ。おまえたちがあたしたちを信じなくなったとしても、あたしたちは消えやしないよ」
「ならばいなくなった魔女たちはどこへ行ったというんだ?」
「そこにいるさ。存在のかたちが変わっただけの話だ」
「なるほど、それも一つの答えだろうな。話を戻そう。今やおれたちに認識できる魔女はあんたただ一人だ。つまり〈古い魔法〉が使えるのもあんただけということになる」
「若い頃には、色々無茶もやったもんさ。今となっちゃいい思い出だよ。家族ともうまくやっている」
「おれには妹がいるんだ。二歳下の美しい娘だ。妹は今、病に蝕まれている。環境の汚染によって生まれた新しい病だ」
「ならばおまえたちの〈新しい魔法〉を使うがよい。おまえたちが〈科学〉と呼ぶその魔法を」
「科学はまだ発達段階にある。不明なことがあまりにも多すぎる。妹の病を治す術は、まだ見つかっていない」
「それでこのあたしならと思ってはるばるやって来たってわけかい」
「そうだ」
「もちろん、おまえの望みなどとうに承知していたさ。だがおまえたちは、あたしなどよりもずっと建前という剣を上手に扱うようになった」
「批判は後回しだ。頼む、妹を救ってはくれないか」
「救い方にも色々あるがね」
「死が一つの救済だと?」
「あるいはそうだろうさ」
「それは欺瞞だよ。おれたちは現世を意味のあるものにするために死という幻想を創り出したのさ。死など存在しない。あるのはただの無だ」
「それも一つの考え方だろうね。だがあたしに言わせれば、そんな詭弁は死を前にしてなんの効果も持たないよ。おまえもあと数十年もすればわかるさ。暗闇の淵に身をたたえ、今か今かと堕ちるのを待つ恐ろしさがね」
「だとしても、だ。おれは死による救済を認めない。生き延びることが妹の救いだ」
「その生きるという言葉には、当然『健康な状態で』という但し書きがつくんだろうねえ」
「むろんだ。植物状態になってなお生きながらえてなんの意味がある?」
「それもまた、おまえにはわからんことさ。彼らは彼らでそれぞれの生をまっとうしている」
「しかしそれは生きているとは言えない」
「そうだろうか? では訊くが、おまえたちの〈新しい魔法〉を押し進めた先にあるものと植物状態とは、いったいどう違うというんだい」
「そんな問答は哲学者とやってくれ」
「あたしたちは誰もが哲学者さ」
「おれはあんたとプラクティカルな話をしに来たんだ」
「そうかい。どちらにせよ、残念だがあたしにはもうそんな力はないよ」
「隠すな。おれにはわかっている」
「認識しているだけさ。理解はできていない」
「どうとでも言え。つまり、あんたももはや変化しつつあるというのか?」
「そうさ。もうこの世界に魔女など必要ない。誰もが魔法を使える。誰もが畏れを忘れた。あたしたちは楽屋に引っ込んで昼寝でもするさ」
「引退するにはまだ早い。あんたにならできるはずだ。なあ、そうなんだろう?」
「あいにくだが」
「頼む。おれにはあんた以外によるべがないんだ。この通りだ、ファタ・モルガーナ。妹を救ってくれ!」
「あたしにはできないね」
「なぜだ!」
「残念だよ」
「本当に、どうしようもないのか」
「ふん、どうしてだと思う? 一人でも信じている奴がいるかぎり、魔女はそこにいる。おまえはそう思っているんだろう」
「そうだ」
「それは間違っちゃいない。だがね、あたしたちの力のあり方は少し違う。あたしたちは、信じる者の数によって力が変わるのさ。あたしを信じているのは、今やおまえ一人きり。どうあがいても人一人を救うほどの余力なんざ残っちゃいないよ。人一人分の力しかない。おまえと同じさ。あるいはそれにすら及ばないかもしれない」
「しかし、それならばあんた以外の魔女、いや、神なら妹を救えるというのか?」
「どうだろうね」
「どういう意味だ」
「宗教を考えてごらん。信仰する者たちを考えてごらん。奴らは信じているんじゃない。ただ習慣に従って行動しているだけなのさ。祈りや儀式はもはや形骸化した。あるいは原初からそうだったのかもしれないね。とにかく、神に今も最盛期のような力があるかはわからない。あたしに言えるのは、そんな可能性は奇跡が起こるよりも少ないってことさ」
「馬鹿な、そんなことがあってたまるか!」
「なら、信じなきゃいい。ずっとそうやってここまできたんだろう」
「神は、神は死んだというのか?」
「言ったろう? あたしたちと同じ、存在のかたちを変えたのさ。おまえたちにはもう見えないのかもしれないね」
「どうすれば見える。どうすれば救える。教えてくれ、ファタ・モルガーナ!」
「その名はもう捨てたよ。あたしはただの古い存在さ。そう、信じる者が、いなくなっちまったからね」
「待て、行かないでくれ。おれを助けてくれ」
「おまえたちは自分たちを助けるために〈新しい魔法〉を発展させたのではないか。それがおまえたちを蝕むとは、なんとも因果なことさね。あたしはもうここらで退場するよ。役目の終わった役者は、さっさと舞台から消えるにかぎる。これからはおまえたちの番さ。この劇を続けるも終わらせるも、すべておまえたち次第。あたしにできるのは、せいぜい時折舞台裏からヤジをとばすくらいのものだ。それじゃ、あとは任せたよ。これが名作になるか駄作になるか、楽しみにしながら見させてもらおう」
「こんな、こんなことがあってたまるか! 不条理じゃないか! ファタ・モルガーナ!」
「それが人生ってものさ、若造」
- 2010/03/11(木) 23:40:06|
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隣のお姉さんは黒髪で、清楚で、僕よりいくつか年上で、艶やかな声を持ち、いつも静かな笑みを浮かべているような人だ。はっきり言って、僕は彼女が好きだ。いや、好きだったと言うべきだろうか。僕が好きだったのは、今目の前にいる彼女ではない。
「どうしてこんなことをしたの……」
僕は黙っている。彼女は犬歯を剥き出しにしてわめいている。だがギターを弾く僕が防音設備が完璧だからという理由で入居したこの部屋からは、どんな些細な音でも漏れることはない。
「ねえ」
うわずった声。違う。僕が聞きたいのはそんな惨めな声じゃない。お姉さん、あなたはいつも溌剌とした輝きに満ちていたじゃないか……、そんなやるせない思いが僕を襲う。僕の思いは彼女には伝わっていないのだろうか。
「わかってるのよ、いつもいつも覗いてきたのはあなたなんでしょう。どうしてそんなことをしたの? どうして郵便受けから指を入れてなにかを触ろうと蠢かせたの? ねえどうして? わたしが好きならそう言えばいいじゃない。面と向かって告白すればいいじゃない。どうしてわたしにこんなことさせるの? ねえどうして? どうしてどうしてどうして?」
「僕は……」
「黙れ!」
彼女は怒りにうち震えている。僕はなすすべもなくうなだれる。
どうして? それは僕の方が訊きたいくらいだ。どうしてこんなことになってしまったんだろう? 僕らはいったいどこで道を誤ってしまったのだろう? いくら自問しても、あるいは彼女に問うてみても、答えは見つかりそうになかった。
「わたし何日も考えたわ。どうすればいいのかって。でもあなたは毎日毎日何時間もじっとわたしのことを見てくる。そうするうちにわかったの。わたしの肌がだんだん黒ずんできて、ぼろぼろと腐っていくの。腐った肉が骨から離れてこそげ落ちていくの。気づけばわたしは骨だけになっているの。でも骨も腐ってるの。腐った部分は捨てなきゃいけないの。でも無理なの。あなたがじっと見てるから。
だからわたしあなた殺すことにしたの」
彼女は僕に向かって突進してくる。その手に包丁を握りしめて。
ふらつく足取りの彼女をかわすのはたやすいことだった。けれど僕はその場にとどまった。僕は彼女の歪んだ愛を受け入れることに決めたのだ。彼女の妄想につきあってやることにしたのだ。
刃が突き刺さる瞬間、彼女は確かに笑みを浮かべた。
そう。
これはすべて僕の妄想。
――だったらよかったのに。
- 2010/03/11(木) 23:38:23|
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少年Aはその日、少年ではなくなった。
彼は人のいなくなった教室の窓辺に座り、虚空を見つめながら夢想していた。あえかな映像が浮かんでは意識される前にかき消えてゆく。名前のない感情が内側からにじみ出てくる。
彼はすべてを花粉のせいにすることにした。薬を飲み忘れたのがいけないのだと思うことにした。けれど、それでもどこかにしこりが残った。
無数の分岐の果てに今自分がいるのだとしたら、それは果たして何人中何番目の成績なのだろう?
彼は自分でも気づかないうちに、そうした考え方を身につけてしまっていた。それになんの疑問も抱かなくなってしまっていた。それでもいいと彼は思う。そうやっていく方が、これからだって楽に決まっている。
校舎に響く矯声がかすかに聞こえる。カメラのシャッターが押される音もする。彼は写真が嫌いだった。写真の中にいるのは偽物の自分だと思っていた。写真は瞬間を切り撮るのではなく、レンズを通して歪曲された虚像を捉えるのだ。彼はそう考えていた。
しかし、あるいは写真の世界こそが真実で、自分の考えている自分が偽物なのではないか?
目の前のガラスには少年Aが映っている。まだあどけなさの残る顔つきをしている。少年Aは彼を見つめたまま黙っている。
「ずいぶん長いつきあいだったな」と彼は言った。「今日でお別れか」
少年Aは悲しげに目を伏せた。彼も同じようにうつむいた。
「誰もが通る道なんだ。おれやおまえだけじゃない」
わかっているよ、と少年Aは頷く。
「いつかまた、会えるさ」
そうとも、と彼は思う。おれたちはここで別れる。しかしこれが最後だとは決まっていない。ずっと先、おれが老いて歩けもしなくなった頃、また一緒にいられる日が来るかもしれないじゃないか。
「そうだろう?」
少年Aは動かなかった。ただ無表情に彼を見つめていた。
しかしお互いに、答えはわかっていた。
「さようなら、××××」
彼は少年Aに別れを告げ、静かに教室をあとにした。
ひとりぼっちの少年Aは、いつまでもそこに佇んでいた。
- 2010/03/11(木) 23:37:54|
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サンタクロースを信じる歳ではなくなった僕は、だから目の前で立ち尽くしている老人のことも信じない。
「さようなら、おじいさん。天国ではもう少し趣味のいい服をお召しになるといいですよ」
「ちょっと待ってくれ、お若いの」老人は額を汗で光らせながら言った。「わたしが誰だかわかるだろう? なあ、こんなことはやめてくれないか」
「よくわかります」僕は微笑みをたたえて銃を傾ける。「でも仕事ですから」
「後生だ、頼む……」
「では、あなたは僕にプレゼントをくださいますか?」
老人はここぞとばかりに食らいついてくる。
「ああ、もちろんだとも! なんだってやろう。子供だましみたいなけちなことはしない。望みはなんだ。金か、権力か?」
「そのどちらも、今の主人から十分にいただいています」
「ならその倍だ!」
僕は首を振る。
「三倍!」
ノー。
「……誰だ?」
「秘密です」
「ふん。いい気になるなよ。おまえのような奴は掃いて捨てるほどいる。すぐに飽きられて捨てゴマになるさ」
「かもしれませんね」
「わたしならそんなことはしない! おまえを生涯大切に使ってやろう。それならどうだ? 報酬もはずむ。地位もやる。女もあてがう。なんなら――」
しかし彼の言葉は終着駅を見失う。銃口から煙があがり、僕の身体は衝撃を受け止めて少しぐらつく。
「……なにを……」
「時間切れです」
鮮血に濡れる老人の胸元に、僕はそっとカードを置いた。
「さようなら」
外では雪がちらついていた。僕は口から蒸気を吐き出し、白に溶けてしまわぬように慎重に歩く。
僕のソリは鋼鉄でできている。トナカイはいない。空は飛べないけれど、立派な造りをした逸品だ。
キーを差し込むと、ソリが振動しはじめる。十二月の澄んだ空気を裂き、けだもののように唸り出す。
今年はあと何人にプレゼントを届ければいいのだろう?
すべての人へのお祝いの言葉を小さく呟きながら、僕は夜の闇に消えてゆく。
メリークリスマス。
- 2010/03/11(木) 23:37:27|
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